洛軍にとっては、まっとうに働き、資金を積み上げることができる城塞という場所は、非常にありがたい環境だった。
公安がたまに立ち寄るとはいえ、法の手が行き届かない場所だったので、匿名性が高いまま生活をできる。
危険なことに手を染めずともだ。
大兄貴のシマでは、ファイトマネーでのし上がり、身分証を手に入れようと試みた。
最終的に突きつけられた仕打ちを思えば、城塞での労働というのは、対価が地味であっても、非常に堅実で、やりがいのあるものだ。
違法ファイトを続けていた日々では、体を切り売りをしている状況で、怪我も絶えず、痛みにもがく日々だった。
ここでは、地道な労働とはいえ、頑張った分だけの支払いもある。
もちろん、外部の世界をよく知ってる人間にとっては、相場などについては、非常に厳しい条件となっていることは理解しているだろう。
しかし身分証もなく、この国に密かに入ってきた洛軍にとっては、相場の半額だろうが、それ以下だろうが。
まっとうな勤労により所得を得ることができ、生活できるのは、非常にありがたいことだった。
今日もボスの紹介で、城塞内にあるとある店にやってくれば、店主はてきぱきと今日なすべき仕事の段取りを教えてくれる。
兄貴の紹介とあらば、どこに行ってもしっかりと雇ってくれた。
稼ぎをあげるには、一つでも多くの仕事をこなすしか方法がない。
少しでも早くまとまった資金を準備したいので、どこの勤務地に行っても、時間との闘いを続けていた。
人が1日でできる量の、2倍をこなせば、ちゃんと2倍支払ってくれる。
時給ではなく歩合制のところもあるので、どんな荷物も人の2倍は担いだし、人より早く走りもした。
とにかくここでは、働くほどに賃金がもらえ、しかもその日のうちに対価を支払ってもらえるのだ。
そんな思いで今日も仕事に邁進しているなか、
「洛軍、ちょっと顔かせ」
信一に声をかけられたのは、まだ本日の業務が終わっていない、夕方の時間帯だった。
今日の現場では、新しい作業内容を覚えたところだ。
店主からは、今日中にこなすように言われていることがあって、不慣れなのでそれらはまだ片付いていない。
「まだ離れられない」
今すぐここを離れるのは難しい状況だった。
「何時までかかるんだ」
「あと2時間は終われない」
そう告げると、信一は今日のボスである店主の元へと歩み寄り。
彼に直接、何かを話しに行った。
そのあとは二人一緒にこっちに戻ってきて。
ボスからは、
「洛軍、今日はもうあがりだ」
と言われた。
そして今日の取り分が、その場で手渡された。
額面を確認すると、きっちりと早退扱いになっている。
こなせなかった業務の分は、しっかり引かれた日当が手渡されたのだった。
「稼ぎが減るなら最後までやる」
資金計画があるし、稼げるだけ稼ぎたいと考えていたので、減額はとても困る。
店主にそう訴えたけれど、
「いいや今日はここまでだ」
店主は断固として譲らなかった。
「今日の勤務は終了だ」
「約束していた額に到達しないと、計画が狂う」
そう言ったけれど、
「終わりは終わりだ」
店主からも信一についていくように指示されてしまう始末だった。
これ以上の交渉の余地もないので、しぶしぶと受け入れた。
「今日の取り分が減った」
信一に対して愚痴のようにこぼしたのに、人のシビアな貯蓄など、どこ吹く風のようにさわやかに笑って。
「もっと大事な用事がある。
洛軍、ついてこい」
信一はそう言って、先を歩いて行く。
まだ労働の対価について名残惜しくそこを離れられないでいれば。
ついてこないことにしびれを切らせたように、手首のあたりをがしっとつかまれて、強引に引っぱられることになった。
肌から伝わる体温に、気持ちがもっていかれている場合じゃない。
連れていかれる時の感触は、決してやさしいやり方ではなく強引なものだった。
信一は風貌の割に、腕力もあっておそろしく強いのだけれど、どうしても触れる肌に、甘い気持ちを抑えられない。
城塞内の狭い通路を連行するようにつれて行く。
迷路のようになっていて、一つ間違えると目的地にたどりつけなくなる。
ようやく最近はようやく地図が頭に入ってきたものの、信一のそれとは全然レベルが違う。
完全なるルートを攻略している男についていけば、あっという間に出口へと向かうことができた。
最短距離で、城塞の出入り口に向かっていく背中に、魔法めいたものを感じて、ぼんやりと見つめてしまう。
信一に対して淡い感情を向け始めたのは、ここに来てからすぐのことだった。
たくさんの言い訳をしながら過ごしてきた。
これはインプリンティングのようなもなんだ、とか。
香港についてからというもの、過酷な状況ばかりが続いていたから。
初めて優しくしてもらった信一に、特別な感情を抱いてしまうのも、不可抗力だ、とか。
自分に対してどんなに取り繕ってみても、もう抗いようがない。
優しくされようがされまいが。
どんなルートで出会ったところで、自分は信一のことを好きになったんだと。
もう認めなくちゃいけない。
信一は、この場所に誰よりなじんでいるようにも見え、同時に異質感もある男だった。
ここでは皆、生活感をにじませているけれど、信一だけは、なぜかそういうこととは無縁のような美しさを携えていた。
どこか優雅にさえ見える姿を毎日のように見せつけてくるのだ。
以前に伝票と格闘している姿を見たときに、意外さを感じたほどに。
この生活感があふれ、暑さと熱気であふれるこの場所で、彼はどこかいつも涼しげにさえ見えた。
信一は手を引いたまま、なんのためらいもなく、城塞の出口に近づいていく。
そこまでいくと、外の風が吹き込んできて。
あと一歩先すすんだ、その外は、境界線の内と外で、完全に世界が変わる。
そう簡単に出れる立場ではなかった。
思わず立ち止まってしまうと。
「どうした、行くぞ、洛軍」
人の気持ちを知ってか知らずか、信一はあまりに簡単に言ってのけた。
こんな身分なので、外に出るにはある一定のハードルが存在している。
外に出れば、公安に見つかってしまうんじゃないか。
そもそも、城塞の人間だ。外を簡単にうろうろしていいのか。
立ち止まって動けないでいると、境界を越えたまだ夕暮れ時の明るい外の世界から手をさしのべてきて。
「こいって、大丈夫」
その手をとって外に出ると、城塞内よりは乾いた空気と。
聞こえるクラクションの音や、車のエンジン音。
すぐそばにある日常でも、まるで別世界のように感じた。
信一はあまりにその場所にいて違和感がなくて、まるで彼の手で、広い世界に連れ出されるような感覚に陥っていた。
◇
城塞を出たことは、これまでにも何度もあった。
近くまで、荷物を運ぶこともあれば、受け取りを頼まれることも。
公安の目といっても、常に彼らの街に姿があるわけじゃなく。
過剰に心配などする必要はないのかもしれないけれど、なるだけ裏路地を歩いたり、人通りの少ない早朝や深夜の時間帯を選ぶなど、注意を払っていた。
特に昼間や、まだ明るい夕方の街になど、出ることはなかった。
今日は掟破りの一日だ。
仕事は途中で放り出すし、まだ夕刻の世界が明るい時間に、人通りも多い街に出てきている。
城塞の暮らしを続ける日々の中で経験する、昼間の外界は、あまりにまぶしいものばかりだった。
思えば香港の地にやってきてから、この街の昼の顔をあまり知らない。
大ボスのシマでも、夜に活動していたから。
信一は事情を理解してくれているので、公安警察に見つからないように、注意を払ってくれた。
行政機関などがある地域を避け、分署などの位置も完全に把握しているようで、そこに配慮したルート選択をしていることを教えてくれた。
それでも、危なくなれば自分の体で隠すような形で、協力的だった。
時刻は夕刻から夜の時間帯へ。
通りをゆく車のヘッドライトが灯りはじめ、時間とともに人が増えてくる街を歩いて行く。
城塞の中では、何かを手に入れるのは一苦労で、いわば普通のレベルの生活(温かいシャワーを浴び、存分に食事をとり)もままならないというのに。
一歩外に出れば香港の街は、豊かさにあふれていた。
衣類、食料、日用品などのエッセンシャル的なものだけではない。
まぶしいほどの貴金属が並ぶ、ショーウィンドウ。
毎度のことながら、まるで別世界のように見える。
ブランドの店横には、列をなしている両替所。
その傍らでは露天商が店を開いていて、その前を高級な衣類を身にまとい、キラキラの姿で早足に過ぎ去る者もいる。
そうかと思えば、古びた大きな荷物をかかえ、どこにも行き先がなく街をさまよってる者も。
「そんなに街がめずらしいか?
もう何回も出てるだろ?」
夢中になって、通りの景色を、街や過ぎゆく人々を眺めていたら、信一にそう言われて、食い入るように見てしまっていた自分に気づく。
まるで街になんて出たことのない人間のように映ったことだろう。
香港にやってくる前でも、暮らしていた地域にはちゃんと市街地があり。
そういう場所にだって繰り出していた。
市街地というものを知らないわけではない。
しかし、香港の活気は独特のものだった。
「こんなに人の多い時間帯は初めてだ」
明るい時間の、こんな人々が活気づいている場所なんて。
この地にやってきてから、まともに歩いたことなどない。
「これからはもっと連れ出してやるよ」
信一の言葉に、リスクは避けたい感情が顔に出てしまう。
一緒に街を歩きたい気持ちはあっても、自分はそういうことが気軽にできる立場にはない。
「大丈夫、安心しろよ。
絶対安全なコースでいくから。
今日だって、鉄壁だろ?」
「すまない」
「なんで謝るんだよ」
「だって今日も、お前に手間をかけてるだろ?」
実際、行政機関の建物などをなるだけ避けるために、回り道をしているのは知ってる。
そうは見せないけれど、信一はいろいろと考えていてくれているのだ。
「強引に連れ出してるのはおれの方だろう?
お前はつくづく真面目な男だよな」
「そうか?」
「大丈夫、おれの後ろにいとけ。
大抵のことはどうにかしてやるから」
信一の言い方というのは、不思議な安心感を与えるもので。
彼といれば、大丈夫じゃないか、そんな気持ちにさせてくれるのだ。
そのまま信一に連れられ、街を歩いていけば、
「ついた、ここだ」
信一が足を止めたのは、とある一つの店舗だった。
大きなガラスのドアは、まるで来る者を拒むような雰囲気でもある。
店舗として営業するには少し、ウェルカムさに欠ける作りだった。
「ここは?」
「テイラーだ」
「テイラー?」
「そう。今からお前の服を新調する」
信一はそう言って、わくわくした表情だった。
「服ならある」
「おれがやったやつ?」
こくこくと頷けば、
「そういうやつじゃ行けない場所に行くんだ」
「どこに?」
信一は不適な笑みを浮かべ、楽しそうに。
「結婚式だ」
そしてそのキーワードに、しばらく硬直してしまう。
何も始まってもいない相手との未来を考えてしまったといえば、怒られるだろうか。
信一のタキシード姿は、さぞ美しいことだろう。
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