九龍無電灯夜譚
Twilight Tales of Kowloon

さわマル展示小説です。
いろいろと無理があること、ご容赦ください。
さらさら〜っと読み進めていただければ。
文字、大きくしました。




§ 熱波の午後と、城塞の沈黙


ひときわ暑い、それは真夏のとある夕暮れに起こった事件だった。
いきなりなんの前触れもなく、城塞内の電気が完全に停まってしまったのだ。もちろん、一部の区間で電気が止まることなど、ここでは日常茶飯事だ。しかし、城塞全体での停電となると、さすがに話は別だった。
どこを探し回っても、電気を使える場所がひとつとしてない。蛍光灯も、扇風機も、冷蔵庫も、ビデオも、全部。
 城塞の構造上、まったく陽の差さない区域も多く、そんな場所では、電気がなければ文字どおり生活が成り立たない。
しかも今日は、うだるような暑さだった。コンクリートの壁は熱をため込み、通気口すらも生ぬるい風を吐き出している。
 停電だとは、思っていない城塞内の住人が一階の電器店に殺到していた。
テレビがつかないと苦情を言いに来たマダムたちはうちわをパタパタさせながら、口々に電器店のマスターを責めたけれど、それは機器のせいではなく、電力供給の問題だと説明して、最初の一団がしぶしぶと帰る。
するとまた別の顔ぶれが同じような苦情で、やってくる。
 四仔の診療所においても、この停電は大問題だった。
いつものように診察に来ているともビデオを観に来ているともとれない患者であふれていたし、今日は新作のビデオの入手で沸き立っていた矢先だ。
VHSデッキは途中で止まり、ブラウン管が「ぶつっ」と音を立てて沈黙しまったのだった。
「はああ!? 一番いいところなのに!」
「なんでいまなんだ!?」
「あとちょっとだろ〜!」
照明さえも消えているというのに、客たちのブーイングはそればかりに集中している。
最初はリモコンで必死に操作して、その次は電源コードを確かめ。
挙句の果てに、機材をバンバンとたたき始めるので、ついに怒った四仔が、診察のない客のことを追い出す。
 診療に関しても、今日はあきらめムードだ。
最近取り入れた赤外線ランプも稼働していないし、完全に電気の供給がやられている。
治療中の面々にも今日はあきらめてもらい、あかりのない夜に備えたほうがいいと言って、診療所から送り出した。
 ここで育った四仔にとって、居場所に電気が供給されない、などというものは日常茶飯事だった。老朽化もあれば、人為的なものもある。
しかし察するに、今回のそれは外の様子からしても、かなりの広範囲なものだろう。
過去にさかのぼっても、なかなかあるものではない。
これはおそらくこれは、城塞がどうかという話ではなく、インフラの面で大規模に問題が発生しているのだろう。つまり、城塞の外の世界でも混乱が生じているに違いないのだ。



 それは龍捲風の営む理髪店、龍城髪廊でも同じことだった。
唐突にすべての電気が落ちる。
「……?」
営業中に起きた異変においては、まずはパーマ用の機材が最大の問題点だ。
幸い今日は客が少なく、夕暮れ時のこの時間、最後のパーマ客を残すのみだったというのは、まだ混乱中の少しの救いだった。
 機材の動作は急に止まってしまって、されている本人はというと、目を閉じていたので大きな異変には気づいてないようだ。
 確かに古い機材なので、時折、電力など関係はなく不調を訴えることもある。
念のため、コードを差し直して、一応は通常の手順のとおり機械を叩いてみても(荒療治のようだが、案外復旧することがある)今日ばかりはうんともすんとも言わない。
 原因は推測する通りの電力源の問題であろうから、それも当然のことである。
まだ時間帯が夕方なので、視認性は保てているものの、室内はじきに暗くなっていくだろう。
古びた天井扇まで止まったので、店内の空気はだんだんとぬるい湿気を含んでいく。
 夕方のこの時間帯はとなると、近所からのテレビの音などが聞こえてくるのだが。
それも完全に止まっていて、代わりにわいわいと騒がしくなっているところをみれば、この停電がうちだけじゃないことを証明している。
 確認するように通路に出れば、あちこちで同様の異常を訴える声があがっていた。
九龍城塞では一部の停電は日常茶飯事だった。どこかで漏電したり、誰かが無理に配線をいじったりして、すぐにここそこの区画の停電が起こる。
けれど――城塞全体が沈黙することなど、まずありえない事態だった。
「……すいませんね、姐さん。今日の営業はここまでだ」
「え?直らないの?まだ終わってないじゃない」
パーマの機材が、仮停止することはままあるので、マダムも機器の停止程度は慣れたものだった。
営業終了だという事実には、驚いたように。
いつだってどうにか復旧してくるから、手だてがないと龍捲風が訴える状況に驚いてしまっていたのだ。
店主である、龍捲風は、天井を指さし。
蛍光灯も、古びたシーリングファンも全部沈黙していることを示せばようやく、
「停電?」
「広範囲みたいだ」
こんな所で中断されれば、パーマの当たり方には多いに問題が残るだろう。
電気復旧後に、再施術をする券を渡し、しょうがないので洗い流すという最後の処置をして、こうなれば客自身も自宅が心配だと、慌てて店を出ていくことになった。
 こうなってしまえば、どうにもいかない。
こんな日には、さっさとシャッターを下ろしてしまうのが吉だ。
パーマ液の匂いを残したまま、龍捲風は屋上へと向かった。



 昼間ならまだしも、刻々と日没が近づく時間帯に発生するなんて。
このまま夜を迎えれば、城塞は文字どおり真っ暗闇となるだろう。
城塞から電力まで奪ってしまえば、ここはかなりのダンジョンとなる。そもそも、あかりがついていても、迷路のような場所なのだ。今夜は迷宮そのものとなるだろう。
 しかも問題はこの暑さだ。
冷房はごく一部にしかないものの、どの世帯にも少なからず扇風機や、製氷できる機材などがある。
それらもすべて電力でまかなわれているので、どこもかしこも稼働しなくなれば、ここは逃げ場のないサウナといっても過言ではない。
 城塞中の人間が、多種多様な相談(というより苦情)に理髪店につめかけてくるるのはわかっていたので、解決できないこの問題を前には、階段を上り、屋上に出る選択肢がベストだ。
そこでは、日が暮れきる前、夕暮れ時の風がさわやかに吹いていた。
 煙草に火をつけるべくライターの火が小さく瞬いた。
屋上から見下ろせば、城塞内はわいわいと騒がしく、皆が真っ暗な夜を備えるための準備に奔走しているようだった。
『龍兄貴はどこに?!』混乱の中には、たまにそんな声も混じっている。
こればかりは、どうしてやることもできない。
 うまく逃げている状況に、少しだけ口角があがる。
しかし城塞の民たちは次に問い合わせる先を心得ていて、信一が代わりに奔走しているような状況に、少しの満足を得ながらタバコの煙をふかした。
「今夜は大変なことになりそうだな」
一人ごちた声が、夕暮れの空に溶けていく。
 早くも大人たちの怒鳴り声が飛び交い、それを聞いた赤ちゃんが泣く。
その次には、城塞内をうろつく犬も吠え始める。
城塞内を見下ろすことができるその場所で、一人彼らと違う時間軸でゆったりしていれば、そのすぐ後ろ、静かに足音が近づいてきていることに、龍捲風はまだ気づいていなかった。


§ 屋上の占い屋


 屋上は、城塞の数少ない“開かれた場所”だった。すでに何人かが、夜風を求めてやってきている。風といっても、湯気まじりのような熱気ではあったが、室内よりはましだった。
龍捲風はここで過ごすのが、今夜の一番快適な選択肢だと知っていたので、完全に生ぬるくなってしまう前の缶ビールを調達して、重ねておかれているプラスチックの椅子を一つとりだし、そこに腰をおろした。
しばらくすると四仔がここにやってきて。
「やっぱりここですか」
「ビデオが止まったか?」
「見てるのは患者たちだ。
デッキが動かないから不満を言うから、もう帰した」
「皆が元気で、上映気分でそこにいくのは、お前の成果だな」
龍捲風が笑って、四仔にまだ冷たさを維持している、ビールを1本渡した。
「ぬるくなり切る前に、飲む作戦か。さすが」
四仔も、もう一つの椅子を出して、ボスの横に腰かけて。
「そうだ。今夜に備えるには、アルコールが必要だろう?」
そう笑って、なにかが起こりそうなこの夜に向かって、時刻は着々と日没へと近づいていた。



「……完全に終わってるな」
ため息とともに、信一は汗ばんだシャツの襟元を引っ張った。
部屋の中は蒸し風呂状態。扇風機は動かず、電球は沈黙したまま。冷蔵庫の中身が無事でいる保証は当然ない。
こんな状況だというのに、陳洛軍はというと、あいかわらず平然としてそこに座っていた。
 この状況では、皆が着衣を可能な限り、はだけている。
中には遠慮なく、上半身が裸で、首にタオルをかけ、そのような恰好でうろつく輩もいる。そしてみなが一様に、必死にうちわを仰いでいるが。
洛軍だけは、何が変化したでもないような雰囲気で。まさにいつも通りだった。
特段困っている様子もなければ、文句を言う気配もない。
「なあ、洛軍。おまえ、暑くないの?」
あまりにいつも通りの洛軍に、信一は思わずそんな問いかけをこぼしてしまう。
「まあ、暑いな」
「だったら……なんでそんな平然としてるんだよ」
「こういった場合、静かに状況の回復を待つしかないからな」
まるで悟りの境地のような洛軍には、不思議と城塞で生きていくためのタフさが備わっていた。
彼は後からやってきたというのに、毎度のことながら堂々たるふるまいだ。
まるでここで生きていくために、生まれてきたような男だった。
 信一にしてみれば、自分はここで育ってきたし、あらゆる事象は経験済みだった。
もちろん、このように電気系統の異常なんて日常茶飯事だというのに、いざ、このように数時間が経過してしまえば、いてもたってもいられなくなるのだ。
しびれを切らした信一は、肩で風を切るように、すっくと立ち上がった。
「洛軍、屋上に行くぞ。
風くらいはあるかもしれない。
それに、ここにいれば、また城塞の面々につかまる」
理髪店に不在の龍捲風に代わり、信一は各所の対応に奔走していた。
今は店の方に引き上げているけれど、ここにいれば、また『困ってるんだ』と、問い合わせがくることだろう。
もちろん、対応してやれることならば、ここにいて聞きもする。
今回のことばかりは、聞いてやってもどうすることもできない。
「屋上ならここよりは涼しそうだ」
そう答えた洛軍が信一から手渡されたのはロウソクだった。
手持ちのろうそくたては、年代を感じるシロモノで。
まだ日が沈み切ってないとはいえ、城塞には一切日光が届かない通路も多い。
壊れかけの蛍光灯だけに頼る道では、視界はゼロとなる。
ろうそくの火をたよりに、洛軍は先をゆく彼についていく形で通路を抜け、階段をのぼった。
 途中、すれ違う人の表情は蒸し暑さに不機嫌がにじみ出ている。
そうしてようやくたどり着いた屋上は、夕焼けが最後の名残を残していた。
 ここには先客がいたようで、龍捲風は停電などどこ吹く風で、ビールを片手に煙草をふかしているではないか。
そして四仔と並んで座って、ゆったりと夕焼けを眺めていた。
「賢明な判断だな、信一」
真横までいけば、ボスは悪びれる風でもなく言った。
「おれたちにも一声かけてくださいよ」
信一は言って、龍兄貴がいなかったことでどんなに大変だったかを熱く語った。
「悪いな、ラスト1本だ」
どっちが飲む?
そう言って瓶ビールを渡してくるボスから、最後の一本を信一が受け取って。
シェアするように一口飲んだそれを洛軍に渡す。
どうやら、このご両人は、二人の関係が親密になっていることを、一応は隠そうとしているようだけれど、こういうところで明白になっているのは普段からのことだった。
本人たちにとっては、無意識の領域なのだろうが。
 洛軍のほうは定かではないが、信一は普段から、誰にでもこういう風に飲み物などをシェアできないほうで、龍兄貴はもちろん、四仔だってそんなことはとっくに知っている。
そういう断片から、みんなに把握されつつあるとはまだ気づいていない信一は、屋上の端の方まで歩いていって、沈み切る太陽を名残惜しそうに見つめ
「光がないとすごく困るんだけど」
切実な声色で言った。
 屋上には風があるとはいえ、窓のない城塞内部よりは、幾分か湿度がましとだといった程度のことではあった。
ただ空を見上げられることは、なにも大きなメリットだったので、ずいぶん気が紛れるような感覚があった。
そして、同時に皆が感じていたのは、今夜は長い一夜になるだろうという、漠然とした予感だった。



 すっかりビールもなくなって、することがなくなってきた夜の始まりの時間。
ろうそくの光だけですごす屋上は、幻想的でさえあった。
いつしかプラスチックの椅子から、ござを敷くような形で、ようやく熱がさめてきた屋上の地べたに、全員が座り込んでいる中、
「占いでもやるか」
信一がにやりと浮かべた笑みは不敵なもので。
ろうそくの光だけで展開するには、なかなかに面白そうな提案内容だった。
「また始まったよ」
四仔だけは、あきれたように。
「こういうときにこそおれたちの未来を見通すべきだろ?」
信一自身が占うと言い張るので、それに対しては、ボスでさえ少しだけの疑念をもっているようだった。
「いいな!やろう」
洛軍だけが、まっすぐに食いつきがいい。
「おまえ、こういうの好きなのか?」
あまりに楽しそうにしている洛軍に、信一が意外そうな表情で問いかける。
「占い自体は別に…。
でも、お前におれの未来を占ってもらいたい」
「別に、本気のやつじゃないからな。
今日はトランプ使った即席のやつだし。
まあ、そういうなら。今度はちゃんとしたやつでもやってやるよ」
自然とデレる二人に、それでも信一は隠している気でいるのが可笑しくもある光景だった。
四仔が、お前ら少しは隠せよ、といまにも言いそうだったので、ボスがそれを視線で制する。
好きなようにさせてやるというのはボスの主義なようだし、まだまだこのあけすけな光景を観覧していたいのだろう。
 目下、楽しそうな二人はというと。
信一のカードをさばきを洛軍がうっとりと眺めている。
こんな大停電の夜にも幸せそうな二人を見ていれば、この先も心配はないだろう。
龍捲風の心の中には、安堵にも似た感情もあって、一抹のさみしさも混在していた。
 四仔には、以前からボスが抱えている、未来に対しての憂慮を肌で感じていただけに、洛軍の出現とともに、どこかそれが軽減されていることを肯定的にとらえていた。
この仲良し空間が、ボスの不安を和らげているのなら、しょうがないだろう、黙って見守るしかない。
「じゃあ、お前から占ってやるよ、洛軍。
ここから一枚ひけ。
手始めに、今日の運勢から、みてやる」
信一が差し出した扇状に並んだカードの中、洛軍はためらわず真ん中から一枚を引いた。
「……ハートのジャック」
全員に、洛軍の引いたカードを周知するようにした信一は。
「それはな…、恋の始まりって意味だ」
「なんだよ、からかってるのか?」
反論する洛軍は恥ずかしがっていて、これを口説き文句の一種のように思っているような雰囲気だ。
「冗談なんかじゃない。これはマジで、本当にそう。
っていうか、そんなつまんない言い方するかよ」
信一はこれが口説き文句じゃないことを弁明しているけれど、洛軍はもうあまり聞いてはいない。
嬉しそうに先ほど引いたカードを自分の手にとりもどして、そのまま夜空にかざして幸せそうにしているので。何か言いたげだった信一もそのまま好きにさせて。
ボスはそんな二人の光景を満足げに眺めている。
そろそろ退散の時間か。
そう思う四仔の元に、
「次はお前な」
信一からカードを仕向けられるので、逃げるタイミングは完全に失ってしまった。
しょうがないので、洛軍が奪ってしまった、ハートのジャックだけは不在のカードを選びとり引くと。
信一はわかったような顔をして。
「なるほど……これは“動乱”の札だな。ただの停電じゃないかもな」
「不吉なこというなよ」
信一の占い結果に、そう反論のようにいえば。
「あくまで占いだ。
だけど、こういうときにトラブルって、つきものだろ?」
と、まるでフラグを立てたかのような占い結果にたどりついたのだった。


§ 桶と洗濯板


 夕刻からの停電のせいで、ここテンプルストリートにある虎兄貴の拠点においても、ゆっくりと館内に熱を溜め込んでいた。
薄暗い廊下に、ぬるい湿気がこもり、壁にかけられた濡れたTシャツはまるで乾く気配がない。
 ここでは“清潔”が厳しくモットーとされていて、洗濯は若手が交代で頻繁に。
床も定期的にモップがけされている。調度品も磨かれており、それは規律の厳しさを反映するように、常に徹底されているものだった。
 拠点としている建物の奥には。簡易洗濯場があり、いつもは騒音とともに洗濯機が回っていた――が、今日は静まり返っていた。
「……やばいな、全然動かない」
十二少は古びた洗濯機の蓋を開けたり閉めたりしていた。
水はすでに溜めたが、肝心の回転ドラムがまったく動かない。
電動脱水機はもちろん、簡易ポンプも止まっている。
水の供給そのものが落ちてはいないが、動かないともなれば、どうしようもない。
つまり、洗濯ができないということだ。
 腰に手を当てて、山と積まれた洗濯物の前に立ち。
通気の悪い裏手の通路、洗濯場は停電の影響をまともに食らっていた。
 とはいえ、ここで思案している十二少は、この事象が停電であるという事実をまだ知らないでいた。
照明のないこの場所では、太陽光のみで作業をするばかりだったので、ここにある機材が動かないことが、そもそもの給電による問題だとはまだ理解していなかったのだ。
どうしようかと考えていた悩んでいたところに、
「今日は諦めるしかないな。十二少」
後ろから声をかけてきたのは虎兄貴だったので、どうしてボスがこのような場所までやってくるのか、とにかく顔を見れて今日はハッピーな日だと、決まったようなものだ。
「兄貴!」
思わず弾む声になってしまう。
こんなに露骨にしてしまっては、気持ちが見透かされてしまいそうだ。
 そんな甘ったるい態度を、受け取るほうの虎兄貴にしてみてみれば、それこそ大問題だった。
停電を把握して、館内の皆の様子を見て回っている中で、十二少だけがこのような声色で、このような弾んだ声で。
もちろん、他の部下達というのは、作業の手を止めかしこまっていて、堅苦しく礼をしてくるという振る舞いが、間違ってはいないが。
いくらひいきする気がなくとも、十二少のことだけはどうしても特別視してしまう。
まずは、このシマに子供の頃からいたという理由はもちろんある。すっかり成長したとはいえ、まだまだ幼さも隠しきれない様子も、いつも視線を送ってしまう理由の一つだ。
彼に対してだけ甘やかしてしまう癖が抜けないのを、どうにかしようと考えていても、なかなかうまくはいかなかった。
”一等可愛い”の席は、常に彼が独占している。
こんな笑顔で駆け寄ってくるのだから、不可抗力というものだ。
「これってやっぱりモーター系っすかね? 
トントンってしたら直るとかないっすか?」
「するとしても、トントン、じゃないだろうな」
「ドン!ドン!ですか」
少しは気合いの入った声で言う十二少に、そうだ、とかえしてやると、楽しそうに笑って。
「ここの設備は全部大事に扱ってますから」
十二少は、自身の所有物の扱いと、この場所にあるものの扱いは一線を画していると主張した。
「これは壊れてるんじゃない。
停電だ。だから叩いても無駄だな」
「停電?!」
「そうだ、電気自体が来てない。
今日のところは諦めろ」
しこたま責めを負っていた様子だった洗濯機の免罪を言葉にしてやれば。
そうなんですね、と。
もう洗濯機を叩くような提案はしなかった。
これで十二少も、とれる手だてはないとあきらめたことだろう、そう思えば、
「だけど、兄貴って前に『昔は洗濯機なんてものはなかった』とか言ってましたよね」
こんなタイミングで、そんなことを思い出す十二少は、
「だったら川とか行くんすか?
まさか海ってことないですもんね」
そう言って、完全に電子世代の申し子だった。
 この場所は、古いものであっても、各種設備は調達してはいる。
困りはしないように取り揃えてはいるがために、こういった事態に弟分たちはめっぽう弱い。
九龍城塞のシマであれば、おそらくこのような状況にも動じてはいないことだろう。
 というのも、停電という事態ではなくとも、電気系統のトラブルは頻発しているようで(それもそのはずだ。電線は、自由に城内をいきかっている)
とある、龍捲風を訪れた日。
一部で区画で電気が使えなかった日に『服が濡れる!』と文句を言いながらも、昔ながらの手法で、洗濯をしていた信一を、龍捲風と共に見つめた日もあったのだ。
ここの面々はたくましく生きている、というようなことを語ったりもしたのだ。
 十二少の、洗濯機以外の洗濯方法はとなにか、好奇心できらきらとした表情に、洗い場の隅においやられている、洗濯板と、石けんと、昔ながらのたらいに歩み寄れば、十二少もぴったりとついてきたのだった。
 そこにあるのは、もう二度と登場することはないだろう雰囲気で積まれている、かつての洗濯セットだ。
「これって」
「昔はみんな、桶と洗濯板でやってたんだぞ」
「これで?」
木製の洗濯板を引っ張り出した十二少は、不思議そうに。
桶もひっぱりだしたかと思うと、はっとしたように。
確かに、これはテレビで見たことがあると、使い込まれた跡がしっかりと刻まれているそれらのアイテムを珍しそうに、実物は初めて見るといって眺めた。
「本当に、これで洗えるんですか……」
それが挑発的な言葉になっているのとは、まったく気づいていないのだろう。
そうなれば、一緒に桶の前に座って水を張るしか道がない。
ホースを伸ばして、大きな桶に水をためていくと、タバコの灰が水に浮かぶ。
「くわえタバコはよくないっすね、この作業」
「おれはコーチだからな。お前がやるなら問題ない」
「だけどやり方わかんないんで、実施指導してもらわないと」
「口頭で説明してやる」
厳しい顔で、一切手は出さないという態度でいたものの。
結局、要領を得ない十二少に、あれこれ指導しているうちに、一緒に作業に加わっている顛末だった。
 十二少にしてみれば、なんだかんだといいながら、結局一緒に作業してくれる、ボスとの共同作業だ(ハート)という甘い気持ちになったり。
向かいあって二人で一緒に作業をしていると、今は兄貴を独占しているような気持ちになって、うきうきとするばかりだった。
「力のかけ方が違う。
こうだ」
途中、数名がここをとおりがかり、兄貴が洗濯板で洗濯など、あわてて『代わります!』と、とんできたけれど。
「こいつに指導してる。
お前らはほかのことに対応してろ」
そういって、周囲を蹴散らして、そのまま二人きりの洗濯を続けてくれるので、十二少にとっては輪をかけて甘い気持ちになる。
 静かな洗濯場にやけに、ごしごしする音が大きく響いていた。
虎兄貴はさすがの腕前で、すすいでは、また絞って。それは歴然とした実力差だった。
それになにより、くわえたばこのまま、腕まくりすれば、力の入る瞬間に、筋肉のつきかたがみえるので。
しばらく見つめてしまっていると。
「おい、手、止まってるぞ」
「兄貴…、洗濯、似合うっすね」
「ことと次第によっちゃ許さんぞ」
ぎろりと、鋭い眼光で見られて、
「あの、今のは、そうじゃなくて」
十二少が焦っていると、虎兄貴は最初からそれごと冗談だったように、可笑しそうに笑って。
一瞬、まずいことを言ったかと肝が冷えたというのに、そういうのを見て楽しんでいるなんて。
「十二少、お前はこれから、激動の中を生きていくことになる。
どこでも生きていける力を身につけろ」
虎兄貴は視線を桶の中におとしながらも、神妙な顔つきで言った。
まるでいつかは離ればなれになってしまうことを示唆する言い方に、一抹のさみしさも覚えていたところに。
「城塞の連中と、サバイバル力に差がついたら、お前の名がすたるだろ?」
「サバイバル力…?」
それはどのようなことを指して言っているのだろうと、頭を悩ませていると、理解できない部下に虎兄貴は笑って。楽しそうなボスを見ていると、十二少もまたつられて笑ってしまうのだった。
 普段のボスは、このシマを統べる者としてやるべきこともおおく、厳しい環境下に置かれていて。
とりわけこのような作業に従事することなど、停電などという異常事態でない限りはあり得ないことだ。
そもそも、この作業場に姿を見せた時点で違和感だったのだ。
 ボスがここで、一緒に洗濯(しかも手洗い)などという、伝統的行事に時間を浪費しているのも、あれこれあったはずのスケジュールが、停電によりぽしゃってしまった経緯もあるのだろう。
停電は不便なものでも、十二少にとっては、恩恵めいたものも感じずにはいられなかった。
「このまま電気、戻んなかったら……どうしますか?」
そんなの現実としてあり得ないけれど。
文明もなにも失われたような世界に舞い戻ってしまうのだとしたら、ボスは少し緩い空気になって、こうして自分と、一緒の時間を過ごしてくれるのだろうか。
そんな淡い期待が胸にあった。
「その暁には、お前はこれを稼業にしろ。収益が見込めるぞ?
一つ習得できたじゃないか、十二少」
そういって虎兄貴が桶に視線を落とす。
洗濯を稼業に?!そう思っていると、こらえきれないように笑った。
「おれの将来じゃなくて。
ただ、いろんな便利なツールがなくなれば、ボスがこうして一緒に原始的なことしてくれるかと思って」
「原始的?言ってくれるな」
「だってまだまだ、そういうの知ってるんですよね」
「そうだな。
お前の知らないものなら、まだまだたくさんある」
それも全部教えて欲しいと言おうとしたところで、作業は終焉を迎えてしまうことになった。
ボスのことを呼びにやってくる、先輩たちの声で、この時間は終了となる。
束の間ではあったけれど、それはとても印象的な時間となった。
 虎兄貴の手際により、電気がある間に回しきれなかった最後の洗濯ものは、全部の作業が終わりを迎えることができた。
他の面々にボスが連れていってしまわれる間際、
「十二少。
お前は今から、城塞にろうそくをもらいにいけ」
「ろうそく?ですか?」
「あそこには大量にあるからな。
日が暮れる前に行ってこい」
城塞に大量のろうそくがあるという件は初耳だった。
確かにあの場所では多くのアイテムが生産され、城塞外に販売されている。
ボスからの指示とあれば、すぐに立ち上がって。
「間違っても、麻雀なんかして、一晩明かしてくるなよ」
虎兄貴のこの口調になるのは、どういう時か知っている。
いつものことで、この言い方はつまり『麻雀でもしてこい』という意味なのだ。
「ちゃんと戻ってきますよ!」
「そうか?」
手洗いで終えたそれらのアイテムを手早く干して、十二少は、大事なお使いを仰せつかった気持ちになり、電気が消えて混乱している街を抜け、城塞へと向かった。
 復旧は数時間程度だろうと見込んでいた十二少にとって、一晩中を想定しているボスの発想はかけ離れていた。
確かに暗くてなにもできない夜には、ろうそくの光でいつもの面々で麻雀なんていうのもなかなか風情がありそうだ。

いやいや違う。
ちゃんとろうそくを手に帰るんだ。

そう自分に言い聞かせ、暗くなった香港の町を移動する。城塞はもうすぐ目の前だった。


§ 火事場泥棒とそろばん


 ヤウマティの市場も、灼熱の空気の中で静かに息を潜めていた。
“フルーツマーケット”では店先の冷蔵ケースは沈黙し、保冷庫が止まり、積まれた果物の山はすでに甘い腐臭を漂わせ始めている。
青果商たちは焦りに満ちていた。
怒号が飛び交い、あわてて台車を押すスタッフたちから荷が崩れる。
「おい、誰だ! そこ勝手に持ってくな!!」
「こんな時だからって好き勝手しやがって」
「どうせ腐って捨てるだけだろ?」
混乱に乗じて手を出す者たち――それは、必ずしも“外のヤツ”とは限らなかった。
互いに顔見知りの店だというのに、現金の入ったかごを混乱に乗じて取り去っていく輩もいる。
この状況で“事件”ではなく、そういう“空気”となっている。
停電=無法地帯という意識が、知らず知らずのうちに人々の行動を変えていた。
 フルーツマーケットの奥地にある、人が踏み込まない(というよりは、踏み込んではいけないと知っているから誰も近づかない)場所にある、大兄貴の構える仕事場。
照明がなくなったため、薄暗くなってしまったその場所で、王九はため息を吐た。
「……なんなんだよ、これは」
深く腰を下ろした革張りのソファ。手にしたハンディミラーは暗くてよく見えない。
今日の服装はさておき、髪型が乱れていないか、それがわからないことが、何よりも苛立たしい。
「王九哥、数が合いません……」
薄暗がりの中、若い弟分たちは札束を手に立ち尽くしている。
紙幣のカウントマシンは沈黙し、手で数えた札は一向に金額が合致しない。
そうなればドラッグの在庫も合わないと騒ぎ出す。
仕分けるための部屋は蒸し風呂のように暑く、仕分け作業は困難を極めた。
「……おまえら、電気がないと、なんにもできねえのかよ」
王九はあきれ顔で天井を仰いだ。
現場がこんな状況になっていることを、大兄貴に知られたら大変なことだ。
 混乱に陥る作業場では、誰しも身勝手な判断で行動している。
合わない計算はあきらめ、夜に備え懐中電灯の電池を入れ替えている者や。
ただ自身の暑さを軽減するのが優先で、書類で仰いで涼をとるのに必死なやつもいる。
「兄貴、冷房が止まったら……まずいです!」
「アイスも全部、溶けるんじゃ……」
心配をする矛先もどことなくおかしくて。
「ビデオの予約が……!」
一人の舎弟は、先日、奮発してビデオデッキを買ったばかりだという。
どうしても見たい番組があると、手に入れたそれは予約操作が煩雑らしく。
電源供給がとまると、そのあたりの再設定も大変だというのが。
今はそんなことを言っている場合じゃない。
「うるせえっ!」
王九の一喝に、口々に不安を吐露していた面々が一斉に黙った。
「そんなことで、この町で生きてけると思ってんのか?」
皆は顔を見合わせて。
「それにな、もっと大事なことがあるだろ」
通りでフルーツの略奪が横行していたということは、薬と現金の仕分け現場など、もっと危険だ。
その点を指摘すれば、皆がはっとする。
 業務量が多いこの時期は、日雇い労働者を入れて作業にあたっているので、この混乱に乗じて、くすねていく者がいないとも限らない。
実際、仕分け現場に入れば、
「おい、勝手に手出しするな!殺されたいのか」
1週間限りの雇用契約であった若者がせっせと自分のカバンに薬を放り込んでいるではないか。この状況に乗じて、ある程度の量をくすねようとしているようだった。
「これは……その…!」
末端の作業員の無法地帯になっている現場を、大兄貴が見れば、何というだろう。
この状況にボスがいなくてよかったと、安堵すると当時に。
「ここのヤクが誰のモンかわかって手出ししてるのか?
ここにある金も、薬も、全部大ボスのものだ」
王九が完全にきれている時は、いつもそうで、怒った表情ではない、こうして笑うのだ。
さきほどまでアイスの心配をしていた部下は、いまはもう鉄パイプを手にしていて。
怯えた犯人がバッグを落とすと、脅すようにその真横の地面を打ち付けて。
手出しせずとも、男はそれ以外の私物もなにもかも置いて、慌てて逃げ去っていった。
「くそ、……まにあわなかったか」
すでに持ち去ったあとという形跡もあり、品が消え去っているのは見てわかるほどだった。今となっては、誰がやったかさえもわからない。
 もしかしたら、日雇いの彼らではなく、ここにずっといる誰かであってもおかしくはない――そんな疑心がじわりと広がる。
持ち物検査でもするのか。
しかし、結局仲間内の誰も、関与していなかったら…。
「おまえら、電気がないぐらいで、いちいち大騒ぎするな」
地下の帳場に、重い声が響いた。王九は額の汗を拭い、背後を振り返った。
やってきたのは大兄貴だった。
奥から悠然と歩いてくるその姿は、今よりもっと闘争の激しかった香港そのままを引きずったような風格だ。
白いランニングにシャツを羽織り、表情に何の焦りも、混乱もにじませてはいない。
「昔はな、電気なんぞなくても、みんなどうにかやってたんだ。
そろばんで十分だ」
大兄貴はそう言って、古びた木箱から小さなそろばんを取り出し、年代もののそれに皆が集まる。
どのように扱うかをレクチャーすれば、皆は感心して。
これ勘定しなおせという。
さきほどまでの空気は一変、面々はすっかりそろばんに夢中だった。
「どうせ今日は何も動かん。
しっかり施錠して、もう帰れ」
結局、部下たちの失態を責めることはなく。
イレギュラーには損失もつきもののようだと、悟っている大ボスはこの出来事にも動じてはいない。
同時に、ここにいる連中が手を出しているとは微塵も思ってはいないようで。
その信頼が、王者の風格でもあると同時に、王九にとっては、脆さのようにも映っていた。
自分ならば、誰のことも、そんな風に信頼はしない。
 ここにいる全員が、ある程度の計算をおえれば、ボスの指示に従い解散して。
ここが住居兼になっている者たちだけがここに残った。
「知ってるか、王九。
城塞にはかなりの数のロウソクがある」
「ロウソク…ですか?」
「夜は長い」
つまり調達してこいという意味だろう。
王九にとって、城塞は興味深い場所だった。
奪いに行くというのなら、なおさら腕が鳴る。
「よし、おまえら、行くぞ」
残っていた数人を束ねて、まだ夕暮れ時間のうちに出発を決める。
「王九哥、行くって、どこへですか?」
「ロウソクを調達しに、城塞だ」
十分な夜を過ごせるだけの装備を奪うべく、王九は勢いづいていた。
 そんな彼を見つめながら、大兄貴はよくわかっていた。
王九はなにかと城塞の連中と絡みたがっていることを。
自分以上に、あの場所を支配したいという欲にかられているのだ。
その欲というのは実際のところ、暴力的、支配的感情に表面上は見せているけれど、本当は王九自身が持つ”仲間”という存在への渇望だとは感づいていた。
 本人は、あの絆について”なれ合い”と称しているものの。自覚のないまま、王九は城塞で築かれる関係性に惹かれ、また同時に疎ましくおもっているのだ。
「ボス、いってきます!」
真っ暗な通路を抜け、王九は夕闇の街へと足を踏み出していった。
その背中は、どこか不機嫌に、でも妙なわくわく感をつのらせている。
城塞に向かうときはいつもそうだった。



 王九一行は城塞を目指してブラックアウトしている香港の町を歩いた。
到着する頃には、すっかりあたりは闇に包まれていた。
ネオンが沈黙すると、この街はまるで別の生き物になる。
ガラス窓には何も映らず、シャッターの隙間からは腐ったような空気が滲み出している。
 王九は町で行き交う人々の、非日常的な様子にはなにも目をくれず、まっすぐに歩いていた。
いくつかの通りでも略奪が起きているようで、こういった事象はフルーツマーケットに限ったことではないようだ。
 城塞内にある古い薬局の奥――そこに、ロウソクが大量に保管されているという話は、城塞の内情に詳しい部下からの発言だった。
そこに向かって、いよいよ九龍城塞の入口に到着すると、そこはかつてないほど静かだった。
こちらも当然のことながら、電気がすべて落ちている。
しかしながら、各階の窓にはかすかな灯りがチラチラと揺れていた。
もちろんそれは、調達しにきたアイテムである、ろうそくが充分に足りている証拠だろう。
「兄貴!あの部屋!!」
そう言って、弟分の一人が指さした先には、城塞の一角。
この状況で、煌々とあかりがついている部屋があったのだ。
 それは明らかに、電力を必要とする光で、どうしてその場所だけ、停電が無関係なのか。
おそらくそこに四少がいるのではないかと、なんとなくの思いがあった。
 行く先を、その部屋に定め、迷路のような城塞内を早歩きで進む。
あっという間にその部屋までたどり着けば、中から聞こえるのは
「ロンだッ!!」
「は?!また俺かよ!」
煌々と明かりが灯る、その部屋こそ四少の麻雀部屋であった。
半開きの扉の向こうには、麻雀台を囲む4人の姿があった。
入口に王九ご一行がやってきているとはつゆ知らず。
まばゆいほどのランタンに照らされ、4人は卓を囲んでいた。
 龍捲風と共に、占いをしていた屋上での会が開きになったのは、あれからすぐのこと。
十二少が屋上に合流したことで、こういう夜には徹夜麻雀がいかに最高か、龍兄貴が教えてくれたのだった。
 ロウソクを持たせてくれたけれど、ここにはついこの間、手に入れたばかりの白色灯ランタンがあり、電池も大量にあったのだ。
あらゆる意味での熱気にあふれた場の空気は、停電などどこ吹く風といった様子だった。
「……お前!なんでこんなとこまで勝手に入ってきてんだよ」
最初に王九の姿を発見し、反応したのは十二少だった。
だが牌を握ったまま、目を細めて入口にきた一団を見つめる。
「王九? おまえ、ここまで勝手に入ってくんなよ。
ボスの許可とってんのか?」
信一は不機嫌そうにそう言い放った。
「……まさか、助けでも求めにきたのか?」
洛軍は驚いた様子でそう口にしたけれど、洛軍のピュアさは今に始まったことじゃない。
十二少は煙草をくわえたまま、牌を切っっていて、四仔は振り返りもしない。
「この部屋に来たってことは、一局だけ混ぜろとか、そういう話か?」
十二少が半笑いでそう指摘すれば、
「見りゃわかんだろ。もうこっち、4人そろってんだよ」
信一はそう言って、あっちに行けと追い払っている。
 本来なら、城塞のこんな場所まで勝手に入り込んでくれば、4人とも立ち上がり対峙でもするところだったが、麻雀は大事な局面を迎えている。
「麻雀なんかしに来くるわけないだろ、こんなときに!
さっさとロウソクをよこせ。ここには大量にあるって聞いたぞ」
王九が脅すように言うけれど、4人はさして相手にしない風だった。
「あるけど、お前に渡す分はない。城塞で使うぶんでギリギリだ」
信一はもう王九の方には視線を向けず、熱心に持ち牌をみている。
「わかった、あとで倍にして返してやる」
「……倍?」
ようやく視線を上げた信一は、しばらく考えて。
わかった、と立ち上がるのかと思えば。
「やっぱり、いやだ。
お前には渡さん」
ふたたび卓に視線を戻し、もう興味などないようだった。
 渡すような分はないと言い放つ、信一の背後には、大小さまざまなロウソクが箱に詰められて積んである。
一晩ではとうてい使いきれない量だろう。
しかも、現状では、白色球の電池式ランタンが部屋を照らしていて、それらのロウソクは一切使ってはいない。
「そこにあるじゃねえか!」
「ルール守らないやつらに、渡せるわけないだろ。
勝手にこんなとこまで入り込みやがって」
静かな怒りをはらむ信一の視線は、何をどういっても、それらを渡す気はないのだろう。
「だったらいいだろう!麻雀で勝負だ」
王九の一言に、全員の視線がいきなり彼へと向いた。
さっきまで、取り合わない風だった全員が一斉に。
どこまでもこのゲームが好きなのだろう。亡国のゲームとはよく言ったものだ。


§ 火事場泥棒と、ろうそくの灯

「いいだろう。
勝負だ。おまえが勝ったら、ロウソク少しやるよ。
負けたらあきらめて手ぶらで帰ってボスにでも怒られろ」
「吠えづらかくなよ」
王九は挑発的に言って、4人のうちで誰が立たされたかというと、それは満場一致で洛軍だった。相変わらず負けが込んでいたので善意ともいえる。
本人はこのゲームに参加できないことに不服を言っていたけれど、シマを越えて借りなど作ってはそれこそ大変なことだ。
城塞内では単なる取り立てであっても、王九が相手ならそうもいかない。
つまり参加しないほうが身のためなのだ。
 数分後、麻雀卓は、さらなる熱気に包まれることとなった。
王九の部下たちの声援まで飛び交う麻雀部屋は、いよいよクライマックスだというのに。
ゲームを中断させたのは、聞き間違うことはない、一発の銃声だった。
皆がピタリと動きを止める。
部屋の外からは、怒鳴り声と、人が争っているような音が遠くに聞こえる。
「……おいおい、マジかよ。また外のやつらか?」
四仔が立ち上がって窓の外をのぞく。どうやら数人の男たちが揉み合っているようだ。
実はさきほども同様のことがあって、こんな夜は、略奪対象として城塞は狙われやすいようで。この夜は侵入者が絶えないのだ。
「強盗だな」
四仔からの指摘に、
「電気が止まったとたん、これかよ」
信一しぶしぶ立ち上がる。誰かが駆けつけなくてはいけない。
ボスの安眠を妨げるわけにはいかない。
それに銃声まで響いたのは、今回が初めてのことだった。
「命拾いしたな、王九」
あまりに悪かった戦局に、ぐうの音も出ない王九は。
「……わかった。
あのならず者を蹴散らすのに手を貸してやる。
ここの治安に貢献するんだ。今回のはそれで手を打たないか?」
「へぇ……あんたが城塞の治安をね」
信一はそれはそれで面白い展開だと。
制圧のために、席を離れないといけないのはわかっていた四人は、せっかくの展開をそのまま放置することを決め。
そしてこの夜、普段ではあり得ない“共闘”が静かに始まった。


§ 城塞内への侵入者


 侵入者は思うよりたちの悪い連中だった。
この暗闇に乗じて、あちこちで略奪を続けていたようだった。法の及ばないこの場所では、被害にあっても正当な法の裁きは下らない。つまりよからぬことを考える輩にとっては、恰好の獲物だ。
 金銭や物品を差し出せという要求に抵抗した相手に対して、発砲したというのがことの経緯のようだ。
それなりの人数だった連中を制圧すべく、全面対決の様相を呈すれば、どこまでが敵味方か区別がつかない。
略奪に入ってきたならず者軍団の風貌と、王九一派は、限りなく外見が近かったのだ。
知らず攻撃してしまいそうだなので、腕章代わりに赤い布を巻き、どちらが味方であるかを明確にし、侵入者たちをとりおさえる。
この一件がようやく片付くころには、別の場所からまた揉めているような声が。
こうなれば、即席の自警団のようなもので、次はあっち、つぎはこっち、と。
混乱する場所に行っては、侵入者を取り押さえ、略奪品を奪い返した。
 ある程度の制圧が終われば、コップの中にろうそくを立てる方法で。簡易のガラスコップランタンを作り始めた。
というのも、暗闇が治安の悪化を後押ししているようなので、なるだけ安全に明かりを確保できるように、その作業を案外きっちりと、王九一派も手伝ったのだった。
 不安定な火が、通路を照らす。それでも、人が見えるだけで、以降の争いが激減するのだから効果的なものだ。
ここまで来れば、ろうそくを渡さないということもできはしない。
大ボスが納得するだろう量のそれらを手渡し、結局麻雀の決着はおあずけのまま。
(とは言え、王九の負けは確定だっただろう)
城塞内の治安はどうに維持ができ、そのまま夜が更けていったのだった。


§エピローグ:最後の灯り、静かな夜


 闇に沈んだ九龍城砦とはうらはらに、香港の中でもごく一部には、停電があまり影響しないような区画の邸宅が存在していた。
ここ秋兄貴の自宅も当然のことながらその一つだ。
入口の看板まで、あかりがついていることが、なによりの証拠だ。
 この邸宅の所有者である秋兄貴の部屋では、それでも非常用電源を節約するように、静かにをひとつだけの明かりを灯している。
コンクリートの壁に映るその光は、粗くて、どこか温かい。
 非常用のバッテリーと、小さなインバーターは、最近設置したもので。
双方とも最新鋭のもので、万が一に備え、まだリリースしたてであってやや高額な機材を、そろえた矢先の停電だった。
 非常用の電源があるとといっても、無駄遣いはできない。復旧のめどはいまだ立っていないのだから。
普段から無駄のない暮らしをしている秋兄貴にとって、今回の停電はそれほど騒ぐようなことではなかった。
仮に、弱運転で作動させている冷房がなくとも。どうにかしのぐことはできる。
バルコニーに出れば、熱気の中に少しだけ、涼しい夜風が混じっている。
「……静かだな」
ひとりごちて、夜空をみあげる。
この停電を受け、誰もあわてふためいていたものの、見上げた空には美しい星があったので、そう騒がずに、今夜ぐらいはゆっくり空を見ればいいのではないか。
 そんなことを思いながら、静かな夜の時間を過ごしていると、もう日付はとっくに越えているというのに、こんな時間に来客を告げるインターホンが響く。
邸宅内には、諸々のことを手伝ってもらう役割の面々を数名雇いあげているものの、今夜はできることも少ないので、ほとんどは休暇とし、彼らの居住区へと戻ってもらった。
残った古株の手伝いが、深夜の客人を連れて入ってきてくれたのだった。
 当然、そのまま通したというのは、そういう対応をしてくれと普段から言っている相手だ。
「悪いな。来るって言ってきかなかった」
姿を現した龍捲風が、第一声から詫びの言葉を伝えてくる。
彼の後ろには、普段ならワンセットではやってこない、大所帯で。
右腕である信一、城塞の診療を担う四仔、虎兄貴のところの十二少は二人とセットのことが多い。
そして新入りの洛軍まで。
いわく、城塞内での治安悪化があり、今月の家賃に関してはちょうど回収が済んだところで、大金があったので、安全を期して渡しにやってきたと、龍捲風は言うものの。
真の事情は違うだろう。なぜなら四少の表情が、皆きらきらとしているのだから。



「なるほど、ここが天国か……」
思わず四仔がそうこぼした。
弱運転とはいえ、うっすらと冷房をいれている部屋は、城塞とは雲泥の差の環境だった。
こちらも弱運転の扇風機の風は、血気盛んな若い面々にはやはり必要不可欠なようで。
「テレビまで点いてる……!」
「ビデオまで見れる……!」
「冷たいプーアル茶まで!奇跡だ……」
四少が口々という最後に、
「秋兄貴のとこだけ電気あるって本当だったんですね!」
信一はそう言って、感激しきっている様子だった。
奇跡の冷房環境に全員が歓喜していて、すごい!と、とにかく大騒ぎだ。
「よくばらしてくれたな」
龍捲風を疎ましい目で見ると、肩をすくめて。
室内は、たちまち湿度と人の気配で満ちていったので、補助電力とはいえ復旧までの間は、それなりには節約の必要があるけれど、結局冷房の強ボタンを押すことになった。
「まったく。こんな時間に全員で避難してくるとは、なかなかだな」
「いいじゃないか、たまには」
楽しそうにしている面々をみつめる龍捲風の様子からして、ここに売上金を持ってくることなどただの口実であるのだろう。
彼らをつれて、涼をとりにきたというのが実態だ。
「なんでここだけ、なんで電気あるんですか?」
洛軍は真面目な表情で。理解が及ばないように秋兄貴に問うた。
「これは自家発電だ。ついこの間に導入した。
あまりに高額だったから半信半疑だったが」
皆のこの様子を見れば、効果てきめんといえるものだった。
 すっかりリビングの床を定位置としてしまった、城塞の面々は、もうここから動く気はないようで。
「念のために聞くが、全員ここで泊まるつもりか?」
秋兄貴の言葉はあって当然のものだった。
「明日の……早朝まで……せめて」
「日が登れば、退散します」
四少はそう口々に行って、留まりたい意思を表明する。
朝になるまでということは、つまり泊まるということではないのか。
 邸宅内の世話を担当するスタッフは、客人に寝床を用意するか問うものの、
「フローリングで大丈夫です!」
「おれたち頑丈なんで!」
「とくにこいつは、どこでも寝れるんで!」
洛軍を指さして信一が言った。
 龍捲風はというと、大したことわりもなく、勝手知ったる風に、バルコニーへと続く窓に歩みよると。
平然とそこから出て、夜風にあたりながらタバコをふかしはじめる。
その背中には、がらにもなく、優しさのようなものが滲んでいた。
彼を追って一緒にバルコニーに出れば
「……明日まで続けば、また夜にやってくるのか?大所帯で」
龍捲風と肩をならべ、日中よりはだいぶましな気温になった夜の風を浴び、秋兄貴はそう問いかける。
「もう明日には終わってるだろ」
「なんだかさみしそうじゃないか」
停電なんて困った事情、一刻も早く終わることを誰もが望むだろう。
しかし、ここには一人、違う感想を持つ者もいるようだ。
「こういう感じも悪くないかと思ったからな」
そう言って室内を振り返り、龍捲風は室内で楽しそうな4人を見つめていた。
「こっちは困る。
こんな大所帯での夜をしのぐ想定をしていない」
「今度はもっと大きなバッテリーが必要かもしれないな」
悪びれる風もないく言ってのけるので、ため息も笑み交じりになってしまう。
 外では、まだ真っ暗闇が続いていた。バルコニーには、深夜になってやっとの、少し涼しい風が通り抜けた。
「……星が出てますね」
そう言って、四仔がバルコニーに出てくれば。
どこどこ?みんなもわらわらと出てきて、並んで窓の外を見上げることになる。
「こんなによく見える夜も、珍しいな」
ボスの言葉に、こくこくと若い四人が頷く。
 電気が少ないというのは、こんな副産物も生む。町全体が暗いせいか、目が光に慣れてないからか、通常通りの輝きでも、各人の採光能力がぐんと上がっている夜なのかもしれない。
 九龍の空に、灯りがなくても、星はちゃんとそこにある。
停電の夜。不便で、暑くて、事件も多い夜。
だからこそ、ようやく出会えた静けさが、確かにそこにあった。
――そして、明日には終わることとなるこの大停電は、終了時には皆に安堵をもたらすことになるのだが、ほんの少しだけ、名残惜しいような気持ちも、皆の胸にはそれぞれの形で残ったのだった。



END